ノルウェーの森、再び
2013.12.30
どんなふうに人と話していたのかわからなくなった時のこと。
しっかりと目を凝らして見渡してみると家の中にあるものは
家具も洋服も、壁や床も窓の外の景色も、いつもと同じだなんてあり得なかった。
まして家族や恋人や友達なんてもってのほかだ。
今いる環境や身近な人達をよく知っているフリを自分に対してする。滞りなく生活し続けるために。
今日は昨日と地続きに繋がっているはずだ、と 時間の流れを信頼しようと努める。
そうでないと混乱してしまう。
実際には一日どころか、一瞬たりとも目の前の人や物事は留まっていないということが
重くのしかかってきてしまうから。
日常というのは取り立てて得難い感覚ではない
気づけば忘れてしまっているくらいだったりするのがそれで。
しかし、ふと我に返って、耳をすまし目を凝らしたときに、
慣れ親しんでいた身の周りのあらゆるものが、もとからそのすぐ背後に隠し持っていた深い混乱の手を伸ばしてその中にわたしを至らしめる。
「日常」とか「普段」という眼差しを自分の内にもつこととは、
いつだって異星人や赤ん坊に戻ってしまえる不安定な人間という生き物の
自己制御のための術だろう。
赤ん坊やエイリアンの気分でいながら、なぜか既に持っているボキャブラリーのなかから、
のどの筋肉をふるわせ、相手に届ける空気の種類を選ぶこと
というニュートラルな地点に立ち戻って会話をしようとすると、
「どんな風に話していたか分からなくなっちゃって」のような精神状態がやってくる。