長岡京アンサンブルの日
2012.7.13
12日に大森さんに引き換えてもらい、クラシックのコンサートについて
長岡京アンサンブルについてお聞きする。
京都御所西のアルティへ、コンサートを聴きに行く。
早朝に東京から京都へ戻り、夜行バスの疲れがとれないまま出勤。
もうろうとしながら働く、話す、幸いそんなに忙しくはない。
一度家に帰り着替える。ちゃんとした服装で、崩れていない化粧で聴きに行きたい。
その気持ちで姿勢はよくなる。
会場でさぶろうと合流、前から2列目、やや右の席につく。
Eine kleine Nachtmusikで始まる。モーツァルトは花のような和音の人。
目の前で弓と弦が触れ合っている。
ホールという建物は、体ごと音の中に沈み込むためのプールのようで
小さくなってオーディオの装置のなかにいるようなイメージが浮かぶ。
耳のすぐそばで楽器の音と、どこかの席の衣擦れや咳が聞こえる。
音の始まるポイントを見る、何かと何かのぶつかり合いで振動した空気が
肌まで届くのに、目をどれだけこらしても音は見ることができない。
不思議なほど知覚しているのに。風に似たもの。
演奏する人は、その体の動かし方と呼吸で古くからのものを解釈し再現していく。
200年以上も昔に作られ、楽譜と耳で伝わってきた正体不明のもの。
演奏者はあの興奮を普段の暮らしで誰かに見せることがあるのだろうか?
昂って、表して、緊密なひとつながりの動作は祭りやセックスのよう。
10代や20代の初期衝動は、30代40代でまろみを帯びて
なんだか優しい肉食獣と目が合っているようだった。
私たちの後ろの席のおばあちゃんとおばちゃん3人が手を叩きながら深いため息をつく。
その息が届いて後ろをちらっと見ると何かがほどけてかしまし娘に戻っていた。
さぶろうは”後ろのばーちゃん達あんなはしゃいで、走馬灯でも見てるんちゃうか心配になった”と言っている。
うん、でもその色んな景色が目の前によみがえる、時間の積層はうらやましい持ちもの。
何か懐かしいものに、または懐かしい何かに似たものに触れたとき
普段開けることのない頭の中の抽き出しが開くことがある。
わたしは、自分が生まれるより昔から多くの人がその音楽に親しみ、
ヨーロッパの宮廷や街の中で奏でらていれる景色を想像する。
まだ体験したことのない事柄は、映画や雑誌からの引用が抽出しから飛び出し、結われるんだと感じる。
もっと自分のものがないのか記憶を辿っていく。忘れかけている遠い記憶と結びつかないか探ってみる。
子供の頃、新宿高田馬場、シロアム保育園、小1の音楽の授業、ライトなクラシック体験。
演奏者は頭の中と目の前にどんな景色を浮かべながら楽器を奏でているのだろう。
ステージの上で間違いを犯せない、楽しい一瞬間。
彼らは自らの体験とどう付き合っているんだろう。
あんな興奮と平静、普通に暮らしていていたらどんなタイミングで味わうことがあるだろう?